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【アラベスク】  第13章 夢と希望と未来



第3節 直向の拗 [1]




「詩織ちゃんは、決して現実からは逃げない子よ」

 乗り換えるために降りた木塚(きづか)駅のホームを、美鶴はぼんやりと歩きながら考える。
 確かに、母が何かから逃げているように見えた事はない。
 ただ単に怖いモノ知らずなだけじゃないのか? そもそも周囲の方がその迫力に逃げ出すというか後ずさると言うか。
 綾子から聞かされた話は、尋常ではなかった。異常なほどに家名に(こだわ)るような家柄で育ったのだ。
 綾子がいたとはいえ、稼ぎながら子供を育てるのは楽ではなかっただろう。産んだこと、後悔してはいないのだろうか?
 お前など産まなければよかったなどと言われたらやはりそれなりにショックだろうが、言われてもおかしくはないだろうと、美鶴には思える。こちらが逆にそう思ってしまうほど、母はあっけらかんと自分の人生を送っている。美鶴にはそう見えてしまう。
 夢があったかどうかはわからないが、現実からは逃げていなかった。
 自分はどうなのだろう?
 ふと、瑠駆真の声が耳に響いた。

「僕が、君を幸せにしてあげる」

 一緒に学校を辞めてラテフィルへ行こうと誘う瑠駆真を、美鶴は逃げるのかと(なじ)った。今思えば、何から逃げるのか、言った自分ですらよくはわからない。
 幸せ。
 自分の幸せって、何だろう? 自分はどうしたいんだろう?
 進路の話を出されても、明確な未来が描けないでいる自分。そう言えば、あの時美鶴は瑠駆真にこんな事も言われた。

「そんなに、唐渓へ戻りたい?」
「唐渓に通っていて、何が楽しい?」

 なんてつまらない毎日を送っているのだろうと思った。唐渓の他の生徒を見下す事だけを生き甲斐とし、ひたすら成績をキープするために勉強に(いそ)しむ。
 そうだ、自分は別に大学へ進みたいと思っているから勉強をしているワケではない。ただ、今の生活を維持するため。
 じゃあ、今の生活が終わってしまったら、自分はどうなってしまうのだろう。高校を卒業した先の、次の生活。そんなものを考えた事などなかった。
 瑠駆真は、この先の人生を考えているという事だろうか? 高校を辞めてラテフィルへ行こうと言ったのだ。辞めるわけではなくちゃんと卒業した場合でも、やっぱりその後にはラテフィルへ行くのだろうか?
 なんとなく、胸に苦しさを感じた。別に瑠駆真が遠くへ行ってしまうかもしれないという想定に寂しさを感じているのではない。瑠駆真を、自分よりも大きく感じてしまったのだ。
 瑠駆真は、ちゃんと先の人生を考えているという事なのか。だったら別に逃げているというワケではないと言うことか。未来など考えもしない自分の方がむしろ現実から逃げているという事なのか。だとしたら、逃げるのかと詰った自分は実に滑稽だ。
 でも、私は別に逃げているつもりはない。ただ考えていないだけで―――
 大きく息を吐いて頭を振る。
 混乱するよ。あぁ、疲れるな。
 でも別に逃げてるワケじゃない。こうやって自分の進路の参考になるモノはないかと思って、お母さんの話を聞きに行ったんだ。これって、自分の進路に対して前向きに行動していると思わない?
 でも結局、参考になるような話は聞けなかったし。
 収穫と言えば、綾子ママが自分の伯母さんかもって事くらいか。ママが伯母さん。なんかヘンな感じ。そう言えば、またあのお金の事、聞きそびれちゃったな。
 キッチンの引き出しで偶然見つけた預金通帳。その金額に目を疑い、詩織に問い詰めた。だが、その度にはぐらかされてしまう。
 いつもは無神経なくらいにズケズケと言うくせに、こういうところだけ口が堅いんだから。ま、そうでなければ、あんな仕事は勤まらないんだろうけどね。
 そこでふと瞬きする。母が仕事場とするのは夜の世界。
 ひょっとしてあのお金、何かヤバい事して手に入れたとか? だから無闇に使えないとか?
 そこでブンブンと頭を振る。
 ま、まさか、いくらお母さんがいい加減な人間だったとしても、犯罪に手を出すなんて。そうよ、だいたいお母さんに緻密な犯罪なんて、絶対に無理よ。
 だったら、あの金額は何?
 せめて預金された日付でも覚えていれば何かの手掛かりにはなったのかもしれないが、残念な事にそれを確かめる術は、今の美鶴にはない。引き出しからは、いつの間にか通帳は消えていた。詩織が別の場所へ隠したのだろうか?
 でもさ、そもそもあれほどの大金があるのに、どうして私たちって、こんな貧乏生活を送ってるんだろう? それに、我が家の持ち物って、あの火事の時にほとんどが灰になってしまったはずだ。なのになんであの通帳は無事だったんだろう?
 あのお金の事も、やっぱり綾子ママは知っているのだろうか?
 考えたところで答えなど出ない。もう一度大きく息を吐き、同時に寒さも感じた。
 巷はクリスマス一色。だがプレゼントもケーキも買う余裕なんて美鶴には無い。華やかなイベントなんて、全くの無縁。
 プレゼントかぁ。霞流さん、クリスマスはどう過ごすんだろう? 誰かからプレゼントとかってもらうのだろうか? やっぱイブの夜はクリスマスディナー? あの妖しいお店でパーティーとかやるのかな?
 何かプレゼントでもしてみようかな?
 だがその考えは、卑屈な細い瞳によって打ち壊される。
 やめとこう。下手にプレゼントなんかしたら、かえって馬鹿にされるだけだ。目の前で踏み潰して、私がどんな顔するのかを愉しんだりするのかもしれない。
 サイアク。
 想像するだけでゾッとする。霞流がそのような人間だとは思いたくない。だがきっと、今の霞流慎二とは、そのような陋劣(ろうれつ)な存在なのだろう。
 なんで好きになっちゃったんだろう? なんで、気持ちが冷めたり心変わりしたりしないんだろう? ただ意地になっているだけ?
 考えたけど、わからない。
 振り向かせてみせるって宣言しちゃったけど、全然勝算無いし。
 あぁ、考える事がいっぱいで疲れる。
 ガックリと肩を落とし、それでも自分を奮い立たせて顔をあげてみた。
 その視界いっぱいに広がる、甘やかな視線。
 はい?







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